2019年4月10日水曜日

「仲間」

懐かしい昔仲間との会合があった。6人中現役は二人。あとの4人は爺さん(笑)。現役は藤原とNHKの阿部渉アナウンサー。10年近く続いている「会」のような気がするが、もっと長いかもしれない・・・西暦2000年になった時の番組の話が出るから、もっと長いのかも。

懐かしい写真を見せてもらって思い出したのだが、会のメンバーの数人は亡くなってる。「生きて逢えてよかったね」と軽口をたたいたが、どこかに真実の匂いがするから困ったものだ(苦笑)。

幹事役のおじさんが懐かしい写真をセレクトして持ってきてくれたのだが、どの写真を見ても、藤原が一番目立つ表情をしていて、更に生意気そう!俺っていつもそうだっけ?などと改めて感心したり・・・周りが普通のおっさんばかりだからそう見えるんだよ、と小さな言い訳。

2次会のない(年寄りばかりだから)小さな飲み会は2時間程度でお開きとなった。だが、今年はなぜか「楽しい」と感じた。いつもより、という意味だけど・・・

時間の経過や、過去のさまざまに対する思いが、年齢とともに少しずつ変化してきたのだと思う。

さて、社内は?静かな時間が流れている。苦手なんだよな、職場がやけに静かなのは。かえって物事に集中できない。ロックコンサートに行くと熟睡できるようなもので、社内が活気で騒々しい方が安心して自分のことに集中できるのだが・・・

先日SONYの新しい一眼レフのカメラを買った。昔のような説明書はなく、PCで見ろと。紙に印刷しようとしたら600ページだとか。で、一日教室に行くことにした。習うより慣れろ、の時代ではなくなった。まず、ちゃんと基礎を教われ!そうしないとほとんどの新しい製品が、宝の持ち腐れになっちまう!!!

2019年4月5日金曜日

「26年目」

最初の1年間は他社のスペースを借りて段ボールの上に電話を乗せているだけの会社だった。2年目に今のビルに引っ越し丸々24年、計25年が過ぎ、今日26年目を迎えた。4月5日が設立記念日。4半世紀の時が過ぎた。

炬燵に入って、会社の作り方という本を見ながら設立の準備をしたっけ。そのころは、ワープロを使いこなせていたから良かったが、それより昔は書類を手書きで作ったのかね。

数年は有限会社だった。軍資金が苦労して集めた300万しかなかったから。当時は株式会社にするのには1,000万円必要だった。隔世の感がする。

ある日取引先に請求書を持っていったら「おーい、ウチって有限会社と取引できるんだっけ?」と担当者が近くの仲間に声を掛けた。

藤原 「カチン!!!」

その小さな事件のあと、すぐに株式会社にした
ような気がする。そして今日、会社は
26年目を迎えた。

小規模な会社で始まり、そして小規模になった。
(苦笑)

20年を超えるスタッフもいる。
会社が小さすぎて、それぞれの息遣いも聞こえる。
これはマイナス要素だな。
まるで家族スタイルだ。

ま、小規模なんだから仕方がないか。
だが以前のように、頑固おやじスタイルで
怒鳴りまくることも無くなった・・・

2019年4月4日木曜日

「ベランダのチューリップ」




5輪咲いた。
もう1本はまだつぼみ。

どうやら短足ではなかったようだ。
ちゃんと背も伸びている。

空は青空。

二人の遺伝子は次の時代に流転していく・・・
昨日、内田裕也さんの娘がそう語っていた。
なんとも文学的だが・・・

そう言えば、娘が裕也さんとロンドンで2度出会ったそうだ。記念写真を撮っていたっけ。

2019年4月1日月曜日

「新元号への想い」


平成の元号が発表されたその日、発表の瞬間を小さいテレビで見ていた。娘が生まれた翌年のことなのだが、発表の時間帯に自宅にいたということと、本当に小さなテレビだったことをなぜか鮮明に覚えている。

大変な時代と重なる・・・(苦笑)。二人目が生まれたが、職業はいい加減、悩みぬいていたころだと思う。夜はピアノの弾き語り、土日は結婚式の司会、昼はカラオケの先生、レコーディングの指揮者、あと何をやっていたかな・・・

あの頃、カラオケ教室のギャラをバイクの男にひったくられ、ほとほと運気に愛想が尽きて、音楽を辞めて、小さなカレー屋でもやろうかな、と本気で考えたりした。店名は「森の小人」にしようか・・・などと本気で考えたものだ。

平成の元号の発表時の光景が、良くも悪くも鮮烈なものなので、今日の発表の瞬間を心待ちにした。30年の歩みが走馬灯のように・・・そんな1日になった。人の生きざまは、いくら考えても読み切れるものではない、そんな思いが重なる。

平成2年の暮れで音楽活動をすべてやめた。平成3年の正月から展望のない日々を迎える。個人の力は弱い、会社組織の中に居なければ力を発揮できない、そんなことを思ったと思う。平成という時代が藤原を育ててくれたのだ、とも思う。

音楽を辞めると決めた平成2年の暮れ、銀座のある店で「藤原君の第1回目コンサート」というイベントをやった。やめると決めているのだから「第2回目」があるはずもない。昼夜2回やって、80万ぐらい利益を出した。貯金が無かったから、取り敢えずの生活費が必要だったのだ(笑)あの日の皆様、今更ごめんなさい。

時代を振り返り 明日を見るにはいいタイミングだ。が、昭和がますます遠くなる。